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キリスト教雑誌「共助」に証が掲載されました(4)

キリスト教雑誌「共助」に、当教会5人の証が掲載されました!

 

証 4

聖書を英語で読む会(M.F)

 

 過去に英語教員をやっていたことのある私は、縁あってひばりヶ丘北教会に移ってから、英語で福音書に触れる機会を望んでいた。礼拝後の愛餐会で目の前に座っておられたT.Yさんにそれとなく尋ねてみた。何とお得意教科は英語だった。二人とも即、意気投合。とりあえず二人のバイブルクラスを始めることになった。2017年4月23日、礼拝後の午後のことだった。テキストは、New International Version を使用し、ヨハネによる福音書から始めることになった。

「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。(ヨハネ1:1)」この聖句は、創世記にも呼応していて真理の根幹ともいえるものである。Yさんと二人の講座かなと思っていたら、みるみる受講者が増していった。世代の若い教会員が横からのぞき込んできて受講者は7人まで膨れたのである。

使徒言行録に移っていた際には、K牧師や大学生のS君、そして、マルコ福音書に入った現在、H神学生が参加して下さっている。使徒言行録は、パウロの3回にわたる伝道旅行があり、その間の筆舌に尽くせない現地人との確執があり、当時のパウロの心境を思いやるに、どれだけ今日のキリスト教が彼に依存するものであるか考えさせられ感謝するものである。

 

 私とキリスト教の出会いは、東京北区にある女子聖学院である。毎日の朝礼は、礼拝に参加することであった。歌が好きだった私は、賛美歌を片っ端から歌っていった。放課後、戦後の焼け跡が残る東京で、養老院、孤児院、病院などを慰問して回ったことを今も記憶している。その後、明治学院英文科に進学した。学舎に礼拝堂もあったが、キリスト教との縁は自然に途絶え、60代になって「日本文化を海外に伝える会」で、カナダ・サスカチュワン湖に1年滞在した。折り紙や書道を地元住民に教えた。下宿先の女主人は熱心なクリスチャンで「日曜日は教会で過ごしなさい」と、半強制的にわたしを連れて行った。現在八五歳の彼女は、フェイスブックで今もつながっていサスカチュワンを去る日が近づいた折、「正子はクリスチャンになって日本に戻りなさい」と私に勧めた。私が頷いた次の週、礼拝堂に大きなプールが用意されていた。水着に着替えた私は、牧師に3秒間、水中に沈められた。再び、水面から出ると、牧師は、「You are born again」と大声で言った。礼拝堂内の仲間の大きな拍手が今でも耳に残っている。

 

 帰国後は、自宅近くの千葉県の日本基督教団佐倉教会に通った。そこで出会った友人と西千葉教会で月1回開かれる『聖書各巻のかけがえのなさ』(岡村民子著)などを学んだ。

神の恩寵の中で80歳の今も私は元気で生きている。

ひばりが丘北教会に転入して先ず気付いたことは家庭的な雰囲気である。牧師先生と教会の家族の一員に加わりまさに私のセカンドハウスなのである。私の人生は、まんざら悪いものではなかった。……いや、いや最高の人生であった。今日も老人ホームで英語で聖書を読んでいる私がいるのである。